樫原本陣年表
江戸時代中期〜後期
山陰道の樫原は、早くから宿場町として設備も整い、丹波・山陰寄りの物資の集積地として賑わっていました。徳川家光による参勤交代制度が始まると、この陣屋は樫原宿の本陣として、山陰道を参勤交代で往来する諸大名の宿舎となりました。
樫原本陣は、享保4年(1719)に当地の豪族であった廣田庄兵衛永帳が、京都所司代 板倉氏から依頼されて経営に従事したことから「頼まれ本陣」とも口伝されています。
街道筋に宿場制度の施行
徳川家光による参勤交代制度の実施
本陣制度の実施
宿場町として樫原の名前が記される
(京羽二重)
東海道草津本陣開設
樫原本陣開設
(廣田庄兵衛門名集)
樫原宿に関する記録
- 村所蔵の絵図に「方木原」の名前と集落部分に「町屋」
- 山城名跡巡行誌に「旅宿茶店等有之」
(自治会所蔵)
樫原本陣 土蔵建築
- 大工棟梁 川島村の幸助・喜介・傳四郎
- 左官 京堀川下がる 丁 市兵衛
(棟札による)
樫原本陣 土蔵建築
(玉村家 御大名様江御注進書并願書控)
江戸時代後期〜幕末
樫原本陣は、寛政9年(1797年)の大晦日に類焼した後、丹波・丹後・但馬の12藩などからの合力眼・拝借金を得て再建が進められ、寛政12年(1800年)4月14日には完成していたことが分かっています。安政2年(1854年)には、玉村新太郎正継が経営を継承し、今日に至るまで5代にわたり維持されてきました。
玄関の天井板には、筆太に書かれた「高松少将御宿」「松平伯耆守御宿」などの宿札がびっしり貼られており、大名の宿帳や関札など多くの古文書も残されています。
4月14日 山家藩より「新築ご祝儀」
桂川満水のため三日間通行止め 大混乱
玉村新太郎正継 本陣継承
高松少将宿泊
(右上下御人数合578人。御馬合17疋)
『わけて難儀するはおびただしく諸具の失することなり。家具重箱四鉢ちょうし盃行灯燭台びょうぶ、たばこ盃の類限りなし。きせるなど50本出せば10本返すはまれなり。雨の振る時はござの紛失おびただし。ふとん衣類も油断ならず・・・」
(寺田屋事件・天誅組横行 民間省要)
明治時代〜現在
明治政府が樹立されてまもなく、樫原本陣は業務停止となりました。その後、宿場町としての歴史や文化は地元に受け継がれ、樫原本陣をはじめ、脇本陣、町家など、当時を語る古い建物は今も樫原の街並みに残されています。
平成4年には京都市指定文化財に指定され、2013年には樫原住民や有志とともに「樫原町家灯篭会」が発足。樫原本陣は、地域住民の方々が集い、楽しめる「まちの本陣」としての取り組みをスタートさせています。
大政奉還
明治新政府樹立
4月1日 「玉村家住宅」京都市指定有形文化財 指定
『・・・伏見宿の本陣が現存していない今日、この住宅は市内で唯一残る本陣遺構であり、また樫原宿の近世町屋として評価される。』
樫原町家灯篭会 発足
まちの本陣プロジェクト 始動
一般財団法人 樫原本陣跡保存会 設立